善の研究:第二編 実在:第七章 実在の分化発展
善の研究:第二編 実在:第七章 実在の分化発展
意識を離れて世界ありという考より見れば、万物は個々独立に存在するものということができるかも知らぬが、意識現象が唯一の実在であるという考より見れば、宇宙万象の根柢には唯一の統一力あり、万物は同一の実在の発現したものといわねばならぬ。我々の知識が進歩するに従って益々この同一の理あることを確信するようになる。今この唯一の実在より如何にして種々の差別的対立を生ずるかを述べて見よう。
実在は一に統一せられていると共に対立を含んでおらねばならぬ。ここに一の実在があれば必ずこれに対する他の実在がある。而してかくこの二つの物が互に相対立するには、この二つの物が独立の実在ではなくして、統一せられたるものでなければならぬ、即ち一の実在の分化発展でなければならぬ。而しかしてこの両者が統一せられて一の実在として現われた時には、更に一の対立が生ぜねばならぬ。しかしこの時この両者の背後に、また一の統一が働いておらねばならぬ。かくして無限の統一に進むのである。これを逆に一方より考えて見れば、無限なる唯一実在が小より大に、浅より深に、自己を分化発展するのであると考えることができる。此かくの如き過程が実在発現の方式であって、宇宙現象はこれに由りて成立し進行するのである。
斯かくの如き実在発展の過程は我々の意識現象について明あきらかにこれを見ることができる。たとえば意志について見ると、意志とは或理想を現実にせんとするので、現在と理想との対立である。しかしこの意志が実行せられ理想と一致した時、この現在は更に他の理想と対立して新なる意志が出でくる。かくして我々の生きている間は、どこまでも自己を発展し実現しゆくのである。次に生物の生活および発達について見ても、此の如き実在の方式を認むることができる。生物の生活は実に斯の如き不息の活動である。ただ無生物の存在はちょっとこの方式にあてはめて考えることが困難であるように見えるが、このことについては後に自然を論ずる時に話すこととしよう。
さて右に述べたような実在の根本的方式より、如何にして種々なる実在の差別を生ずるのであるか。先ずいわゆる主観客観の別は何から起ってくるか。
主観と客観とは相離れて存在するものではなく、一実在の相対せる両方面である、
即ち我々の主観というものは統一的方面であって、客観というのは統一せらるる方面である、 我とはいつでも実在の統一者であって、物とは統一せられる者である(爰ここに客観というのは我々の意識より独立せる実在という意義ではなく、単に意識対象の意義である)。たとえば我々が何物かを知覚するとか、もしくは思惟するとかいう場合において、自己とは彼此ひし相比較し統一する作用であって、物とはこれに対して立つ対象である、即ち比較統一の材料である。後の意識より前の意識を見た時、自己を対象として見ることができるように思うが、その実はこの自己とは真の自己ではなく、真の自己は現在の観察者即ち統一者である。この時は前の統一は已すでに一たび完結し、次の統一の材料としてこの中に包含せられたものと考えねばならぬ。自己はかくの如く無限の統一者である、決してこれを対象として比較統一の材料とすることのできない者である。
心理学から見ても吾人の自己とは意識の統一者である。而して今意識が唯一の真実在であるという立脚地より見れば、この自己は実在の統一者でなければならぬ。心理学ではこの統一者である自己なる者が、統一せらるるものから離れて別に存在するようにいえども、此の如き自己は単に抽象的概念にすぎない。事実においては、物を離れて自己あるのではなく、我々の自己は直に宇宙実在の統一力その者である。 精神現象、物体現象の区別というのも決して二種の実在があるのではない。精神現象というのは統一的方面即ち主観の方から見たので、物体現象とは統一せらるる者即ち客観の方から見たのである。ただ同一実在を相反せる両方面より見たのにすぎない。それで統一の方より見れば凡すべてが主観に属して精神現象となり、統一を除いて考えれば凡てが客観的物体現象となる(唯心論、唯物論の対立はかくの如き両方面の一を固執せるより起るのである)。
次に能動所動の差別は何から起ってくるか。能動所動ということも実在に二種の区別があるのではなく、やはり同一実在の両方面である、統一者がいつでも能動であって、被統一者がいつでも所動である。たとえば意識現象について見ると、我々の意志が働いたというのは意志の統一的観念即ち目的が実現せられたというので、即ち統一が成立したことである。その外凡て精神が働いたということは統一の目的を達したということで、これができなくって他より統一せられた時には所動というのである。物体現象においても甲の者が乙に対して働くということは、甲の性質の中に乙の性質を包含し統括し得た場合をいうのである。かくの如く統一が即ち能動の真意義であって、我々が統一の位置にある時は能動的で、自由である。これに反して他より統一せられた時は所動的で、必然法の下に支配せられたこととなる。
普通では時間上の連続において先だつ者が能動者と考えられているが、時間上に先だつ者が必ずしも能動者ではない、能動者は力をもったものでなければならぬ。而して力というのは実在の統一作用をいうのである。たとえば物体の運動は運動力より起るという、然るにこの力というのはつまり或現象間の不変的関係をさすので、即ちこの現象を連結綜合する統一者をいうのである。而して厳密なる意義においてはただ精神のみ能動である。 次に無意識と意識との区別について一言せん。主観的統一作用は常に無意識であって、統一の対象となる者が意識内容として現われるのである。思惟について見ても、また意志についてみても、真の統一作用その者はいつも無意識である。ただこれを反省して見た時、この統一作用は一の観念として意識上に現われる。しかしこの時は已に統一作用ではなくして、統一の対象となっているのである。前にいったように、統一作用はいつでも主観であるから、従っていつでも無意識でなければならぬ。ハルトマンも無意識が活動であるといっているように、我々が主観の位置に立ち活動の状態にある時はいつも無意識である。これに反し或意識を客観的対象として意識した時には、その意識は已に活動を失ったものである。たとえば或芸術の修錬についても、一々の動作を意識している間は未だ真に生きた芸術ではない、無意識の状態に至って始めて生きた芸術となるのである。
心理学より見て精神現象は凡て意識現象であるから、無意識なる精神現象は存在せぬという非難がある。しかし我々の精神現象は単に観念の連続でない、必ずこれを連結統一する無意識の活動があって、始めて精神現象が成立するのである。
最後に現象と本体との関係について見ても、やはり実在の両方面の関係と見て説明することができる。我々が物の本体といっているのは実在の統一力をいうのであって、現象とはその分化発展せる対立の状態をいうのである。たとえばここに机の本体が存在するというのは、我々の意識がいつでも或一定の結合に由って現ずるということで、ここに不変の本体というのはこの統一力をさすのである。
かくいえば真正の主観が実在の本体であると言わねばならぬ事になる、然るに我々は通常かえって物体は客観にあると考えている。しかしこれは真正の主観を考えないで抽象的主観を考えるに由るのである。此の如き主観は無力なる概念であって、これに対しては物の本体はかえって客観に属するといった方が至当である。しかし真正にいえば主観を離れた客観とはまた抽象的概念であって、無力である。真に活動せる物の本体というのは、実在成立の根本的作用である統一力であって、即ち真正の主観でなければならぬ。